私は「人造人間」をテーマに創作活動をしている。
幼い時分、曾祖母の葬儀の時に思うことがあった。寿命による、もしくは不意の死とはどこへい くことなのだろうか?極楽浄土と思ってもピンと来なかった。曾祖母は意思疎通ができない状態 になっただけで意識はここにあるのではないかと疑った。医療の現場では「脳死は人の死か」と いう問いがある。植物状態の患者は意識が無くとも生きている。何を以て現世との繋がりが絶た れるのか判断は難しい。
幼い頃の私はそういったことを漠然と感じて不安になった。個人の魂はどこへ行くのか?その不 安から当時思いついたのが「人造人間」という妄想だった。身体に不都合があるのならば新しく 用意できないのかと考えた。魂は新しく用意したその身体へ戻るのだ。小学校の自由研究でそこ までの考えを形にすべく等身大の操り人形を制作した。自分と同じ背丈を自立させて尚且つ動か す為の仕掛けを施した。結果的に自立に必要な構造として足が3本になり、移動も前身のみ可能 といった制限付きで成立した。大学生となって自らの専門的な表現を模索した時、この創作を思 い出した。今はこのルーツの続き、未来を妄想している。
この創作を研究するうえでギリシャ神話のピグマリオンであったり古代エジプトの「第二の誕生」 という死生観、アナトリー・モスクヴィンという人物が起こしたネクロフィリアに関する事件など から思想の輪郭を掘り起こしている。モスクヴィンは「科学者が人間を生き返らせる。私はそれま でこの子達(女性のミイラ)を保護しているんだ」という発言をしている。死者、または魂の保 護というのが例にあげた全ての話で共通していた。人造人間というテーマにある死生観を考察す る部分。私はそこに表現・研究の可能性と魅力を感じている。
現在の制作では既存の人型を脱することを目標に考えている。小学生の頃に作った等身大操り人 形が三つ足であったように、必要に応じて実際の人間的特徴から離れて良い。人が産まれる過程 の中にも造形の逸脱が存在する。妊婦の腹のなかでは受精卵から人の胎児の形を成すまでに顔面 は猫科のような変形をするし、顎は魚のエラのような特徴が反映されているという。蛙などに見 られる指の間の水掻きもそういった変形途中に存在する。日常のなかに含まれる些細な現象でさ えも反映させる対象になり得るかもしれない。したがって造形過程はこの表現研究に関する重要 なファクターだ。細かく記録して平面作品に起こしている。人造人間の構造は絶えずアップデート し魂の器として完成していく。その先に現存する人間をどう逸脱していくのか。一種の信仰的対象 である私の人造人間は最終的にどうなるのか。
数々の創作過程を経て誕生する幻想の人間像を私は愛しているのだ。