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  • 執筆者の写真: SATO RYOJI
    SATO RYOJI
  • 7月2日
  • 読了時間: 2分

最近、悪徳の魅力について考えることがあります。精神の中にある魅力的な毒、これに憧れがあるという感じです。私は、というか人の誰しもが基本は道徳心を大事にしているはず。

社会に生きるという仕組みがある以上、大なり小なり芽生える善の心。しかしそれだけだと表現者としてどうなのかと考えました。

人の三大欲求に食欲、睡眠欲、性欲とある。有名な話だし、生物としてこれを求めるのは納得だろう。しかしこの性欲に関して声高に会話するシチュエーションは学生時代ぐらいしか無い。恥ずかしいですからね。だが抑圧されている欲求は中毒性のあるものに思えてきます。美術の中にはエロスやセクシーといったことをテーマにする作品は少なくないです。こうした抑圧と反発するエネルギーを表現しようとしているのか?と少し考えたりもしました。私にあるコンプレックスのひとつは良くも悪くも凡人であることです。何かと丁寧に考える習慣をつけてきました。でもそのせいで私自身が蓄えた「危ない橋を渡って得た魅力」が少ないように思っています。芸術家という生き物であるにあたってじわじわと焦っている事柄です。私は周りに迷惑をかけて裏切るような方法も実行しなければならないのか?そうすることで私の表現家としての悪徳が足りるのか?無理矢理するのは違う気がするが、そうでもしなければ殻を破るような成長ができないとも感じています。

今は何も決めていないのだが、もし実行したとしても誰にも言わないだろうと思います。悲しむ人がいるかもしれないので墓まで持っていくでしょう。ことを起こしたなら作品の中に置いていくので読み取ってください。そしてどうか許してほしい、、とまだ何もしていないのに犯罪者になったかのようなことを書きました。こういう勘違いかもしれませんが「覚悟」を記しておこうという回です。重っ苦しくて申し訳ないです。

 
 
 

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