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  • 執筆者の写真: SATO RYOJI
    SATO RYOJI
  • 9月28日
  • 読了時間: 2分

最近思っていることなのだが、毎日の中に知性を感じるシーンが減っている気がする。ちょっと傲慢に聞こえる言いっぷりだが偽りない考えなのだ。思考を感じたいというのか、何気ない事柄に疑問を持ち、それを予測し開拓するのが知見を広げる楽しみであって、高度に行える人の喜びらしくはないか?美術制作をしていると作品の結末を求める、結果の商材としてのイメージが広まりすぎな気がしていて、表現に起こる楽しみの危機だとか大袈裟だが思ったりしている。行動過程に生じる感覚を素材としていることに価値がつかなければ、表現のための研鑽は社会に飲み込まれて尻すぼみしていくように思う。本来はそういったしがらみにも捉えきれないスケールを想って表現は育てられてきたはずだ。凄く言葉にならない、なので文章にしにくいイメージを書いていくのだが、私は小学校5年生の頃に怪我をして早退したことがある。掃除の時間に持っていた長箒を軸にクルクルと周りその勢いでコンクリの壁に頭突きをした。少ししてぶつけたおでこが腫れて瘤のようになるほど。その際、ひたすらに回転していたことが楽しかったのだとか。回転の最中、遠心分離機にかけられているように中心から血が遠ざかっていく。血の気が引いてなお加速するのはなぜ、自らの身体から減っていくのに意識が先に走っているような。当時そこまで細かく考えちゃいなかったし、身内からはただただアホの子エピソードで自分自身も笑い話だが。そんなんで良かったと最近感じる。これは知性を感じる行動か?この子はアホっぽいと思うが行動はどうか? 壮大な背景と情報によって組まれる歴史的な知識と比べるとピュア。偶然、感覚的疑問なのでその場に答えが介入できない。こんなことで楽しめるのが知性で良いと思うのだ。意外と言葉にできたのかもと思いつつ今回のブログはここまで。



 
 
 

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